「なんとかなる」な港式思想

香港人たちと付き合っていると、何事につけても彼らの究極の結論は
「そんな真剣になんなくても、結局なるようになるよ。」
という、日本人からしたらちょっと不安になってしまいがちな響きを持ちつつ、
一方でその健康的過ぎる思考回路がちょっと羨ましくもある
絶妙なオプティミズムに結びついているような気がする。

例えば、それが仕事に関することであっても、
なんだかんだでやることはやってくれるし、彼らが言うとおり余計な心配は
しなくても良かったんだ、と思わされるケースもしばしば。(その逆も多いけど・・・)
そういう経験を積むうちに、最近の私は彼らの温度感にあわせて
最後には「なるようにしてくれる」という根拠の無い信頼のもと
仕事をすすめることも出来るようになってしまった。

ただ、世の中にはそういうミクロ的な割とどうでも良いような事象と
そうではなくて人生に大きな影響を及ぼす可能性を持つマクロなイベントも存在する。

香港の将来。
これは明らかに後者に該当するものであって、あんまり気安く「なるようになる」
とか言ってほしくないという類のものだ、と私は思うことがある。

この街の政治は高度に複雑な事情のもとに構成されている上に、
あまり明るいとは言えない将来が既定路線と定められているから
個人レベルでジタバタ騒いだところで得るものもないという考え方もある。
しかしながら、今私が言わんとするのはその既定路線の終着駅である
「契約の時」を待たずして威力を行使しようとするものに対する態度のことである。

もちろん、どうしてこんなことを突然言い始めたかというと
昨今騒がれている「銅鑼湾店主失踪事件」を受けてなのだけれど
きっと私は他の日本人の方々が感じているような理不尽に対する憤りであり、
強権政治に感じる恐怖であるようなショックを同じように感じているのだと思う。

それに対して、肌感覚で感じる身の回りの香港人の態度があんまりにも
パッシブで無気力的であることについて拍子抜けというか、残念なのである。
怖い。あり得ない。意味がわからない。
批判的な言葉は聞かれるけれど、それを行動に移すといった強い決意も見られない。
むしろ私のツイッターのタイムラインの方々の方がよほど熱い。

「でも、中国は国。香港はたかが一都市。組織としての力が違いすぎるから。」
私にそう話す人もいたけれど、これが正直な気持ちかもしれない。
そういう意味では雨傘革命が浮き彫りにした力関係は思いの外
香港市民たちのセンチメントに大きく影響を与えたと考えられる。

今回、中国政府は思想や言論の自由といった、基本的な権利をあっさりと奪い去った。
そして、それに対する説明も誰でもすぐに嘘だと見抜けてしまうようなものを捏造した。
言い換えれば、「正しいことを当然のごとくやっただけ」であって、
それについて騒ぎ立てる連中に対して、釈明する必要もないという立場を示したのだ。

これは香港市民に対する挑戦でもあったと思う。
中央政府を批判する行動をとる人に対して不当に強権を振るい、
それに対して市民はそれほど目立って大きな反応を見せない。
おそらくこの構図は今後の中央の香港に対する施策の判断基準のひとつになる可能性を孕む。
あの手この手で香港市民の反応を試し、そして徐々に手中に収めていくのだろう。

「将来はやっぱりアメリカやカナダに移住したいの?」
という問いかけに多くの人が
「香港が好きだから、ずっとこの街に。」
意外にも多くの人がそう返すけれど、それはやっぱり「なるようになる」
という根拠の無い明るさの元に彼らが生きているからなのだろうか。

でも、それは違うのだろう、と私はまだ信じていたい。
「なんとかしたいけど、できないんだ。」
少なくともそういう悔しい思いはみんなの心の中で強くくすぶっていて、
それが出来ない歯がゆさ故に憤っているということに私はしている。
それだけでも、態度としては180度違うわけなのだから。

もし万が一、そんなことは全然無くて、みんなが何も思っていないし、
今回の一件についても特段意見がないというのなら、この街はもう終わりだ。
50年を待たずして、簡単に中国化してしまうだろう。

自分の意見が政治に通らないことなんてしょっちゅうある日本だけれど
一市民がグダグダ持論を述べることについては容認されている。
そんな国で育ってきた私にとって、今香港が陥ろうとしている情況は未知の領域。
ここ数年で大きく変わってきているように感じるマスコミも、
そして私の周りの人たちも本当のことを知っているのか、伝えているのか、分からない。
(日本のマスコミももちろん信用ならないけれどね)

知らないものは当然怖い。
香港が誰も信じられないような怖い街にはなって欲しくないのだ。

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