英語コンプレックスと我が子への教育

「子供さんに何か習い事させるんですか?」
「いやいや、特には考えてないです。結局は本人のやる気次第ですからね〜」

とある日のランチの会話。二人とも地方出身であるため、いわゆるお受験戦争への心構えや準備というふうでもなく、おっとりした空気。あれもこれもやらせて、幼稚園はどこそこへ、というような都会の家庭の雰囲気より今のところフワフワ気味だ。

いろんなことに出来るだけチャレンジさせてあげて可能性を見つけてあげて、将来苦労しないようレールを敷いてあげる。
子供なのだから伸び伸び楽しく育ててあげればよい。

そんな二つの選択肢の間でついつい後者を選んでしまう。

そんな私もひとつ(ふたつ)だけ例外がある

が、そんな私もひとつだけ(いや、ふたつだけど)これは絶対やらせた方が良いのかなと思うことがある。それはまさに今後の世の中で生き抜くことにおいて必須条件のように個人的に感じているからなのだけど、「英語(と中国語)は話せるようにしておきたい」のだ。

もちろん、昨今のAIやその周辺の進歩ぶりを見るに言語能力のアドバンテージもいずれ小さくなってくるのかも知れないが、私自身が特に専門的な技能があるわけでもないため(いわゆる手に職をつけていない)、なにかひとつでも自信を持てて、それが社会から必要とされるものを身につけさせたいという想いは自分自身の経験からも、親心としても割と当然なことであろう。

特に英語については、自分がなし崩し的にグローバルビジネスの世界に飛び込んでしまって苦労しただけに、つい力が入ってしまう項目でもある。帰国子女の人たちが話す流暢な英語は長年憧れの的でもあり、私にとっての埋まらない差にもなってしまっている。「日本人だから英語が苦手で」という免罪符が効かない世界にいる私は、いわば英語コンプレックスを常習的に感じているのだ。

「あんな風に英語が聞けて話せたら、どんなに楽だろう?」って。
なんせ帰国子女たちったら、英語もペラペラな上にプレゼンも自信満々な態度でやるからいちいちキラキラして見えちゃうのだ。

見当違いの不満

そういう日々を過ごしながら、私はこうも感じるようになっていた。

「なんでうちの親は、小さい頃から私に英語教育してくれなかったんや。ディズニー見せてくれるだけでもよかったのに。」

うちは国家公務員の家庭だったから外務省付でもならない限り、そもそも海外居住は物理的に縁がなかった。だとしても、なにかしら英語教材を与えてくれたってよかったじゃないか。そうすれば、私の英語ももっとマシだったはずだ。

英語は幼少期に入れるのが一番いいし、それは早ければ早いほど良い。
それを知ってから、私は取り返しのつかない時間を日本語だけで過ごしてしまった(過ごさせられてしまった)ことを悔やんだ。

そういうところから私の勝手な子供への押し付けは生まれた。

「自分の子供ができたら、早々に英語漬けにしてあげたい」

ある意味、悲願である。
(こういうふうにして、世の中の子は預かり知らぬところで発生した親の勝手な希望とおせっかいを押し付けられるのだろう)

そして、今日。

私が後悔ないように英語教育を全力で入れているかというと、答えは明確に・・・否。

なぜであろうか。しかも、夫婦共に英語話者。私は海外に住んでいたし、奥さんは英文科卒という環境である。

– 単純に忙しい
– 今まで夫婦生活を日本語100%で送ってきたから英語で喋るのがなんとなく気恥ずかしい
– 二人ともネイティブの発音ではないから、そんな英語を入れてしまうことが良いことなのかわからない

というようなところなのかと思うが、どれもこれもどうでも良い理由だ。

生後7ヶ月というところでちょっと焦りも出てきたので、ChatGPTに聞いてみた。彼(彼女)の答えは下記であった。

英語の歌やリズム遊び
英語の絵本の読み聞かせ
英語のビデオやアニメ
英語での遊びや活動
外国人の先生とのコミュニケーション
親も一緒に英語を学ぶ

どれもこれも時間、もしくは経済的な覚悟が必要なものばかり。
自分の親がなかなか英語まで手が回らなかったのもわかる。

とはいえ、何かやらねば。そろそろ真剣に考え始めた私がいるのであった。

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