発達に障害がある人が働くということ 2
前回の 発達に障害がある人が働くということ 1 を読んだ感想はいかがだっただろうか。
いちいち大変そうだなと思った人もいれば、職場にもそんなヤツいるなという人、はたまたみんななんだかんだ色々あるさという意見もあったかもしれない。そうなのである。ほとんどの人はなんとなく得手不得手があったり、誰もがそれなりの癖があったりなので、私の文章を読んでてそれ俺も/私もありますわ、というのがあって然りである。
別に発達障害だからといって、特段知能が低かったり運動ができなさすぎたりとか、気がついたら空を飛んでいたり、いつも呪文のように独り言を言いながら歩いているわけでもない。
ただ、レベルの差こそあれど、それぞれの特性の度合いがひどくて社会に適合していくのが困難だったり、特性が多岐にわたっていてそれと付き合っていきていくのが難しかったり、場合によってはそれが故に精神的に病んでしまったりという風になってしまうのである。そう言う意味では、「誰でもそういうのあるよ」というあえて特別視していかない見方や「発達障害だからヤツらはやばい。関われない」というような両極端な捉え方は注意深くしていきたい。
ということで、前回につづけて私なりの特性を紹介していきたい。当然ながら個人差あるので、ASD特性を持つすべての人にあてはまるものではない。特性はみな大なり小なり異なる。
言葉に力を持たせすぎる
なんのこっちゃと思うかもしれないが、私にとって言語はとても大事だし、その意味は非常に重い意味を持つ。
なんせ自分にとって非言語なコミュニケーションは苦手なものなのだから、必然的に言語的なそれに頼りながら生きてくからである。
であるから、特に時間が限られているうえにプロフェッショナルな環境である仕事場での口頭、メールでの伝達事項に関してはなるべく伝えたいこと、思ったことをできるだけ齟齬なく、無駄なくこなしていきたいという思いが強い。
私がAと伝えたいときは、A以上でもA以下でもないのである。そこに他意はないし、攻撃的な意図も一切はらんでいない。
これだけ聞くと、割と正論のように聞こえるし海外の人間とはこれがお互いの常識になるケースも多い。が、問題は日本人のようにいわゆるハイコンテクストな人たち(文化の共有性が高く、言葉以外の表現に頼るコミュニケーション方法を好む人たち)とのコミュニケーションである。要するに相手にとっては「そこまで明確に言わなくても」とか逆に「いや、そんな意見を求められてもなんとなく察して」というような具合になってしまうのである。
そう言う意味では、空気をうまく読みながら日本社会に適合しており、かつ相手にもそれを期待するタイプの人にとっては私はとっても付き合いづらい人種であろう。今でこそASDを自覚しているが、過去には私が苦手だと思って離れた部下の人たちもいたのではないか。
それでいて、相手の言葉も重みを持って迎え入れるから、相手の何気ない言葉や日本特有の言い回しに関してもいちいちそれを解析して真に受けてしまい、何が悪かったのかしばらく考え、落ち込んでいくという本気でおめでたい生態を持つのがこのASDという人たちである。
しまいにはそれらの言葉を大事にうちに持ち帰って週末中反芻しながら傷つき、反省する。もっとこのエネルギーを前向きに使えばよいのに。
同じくことを繰り返してるくせに急に破壊神
ASDの人は結構同じ習慣を繰り返したがるらしい。
私も気づいてみれば、意外にそうである。割と服なんかも同じものを何着も持っていてなんなら毎日同じ格好してても気にならないし、グルメが多い地域に住んでる割に外食もワンパターンで新しいお店の開発もしたがらない。1日のルーティンもなんだかんだ似通ってる。
ただ、そうかと思えば他の皆さんが「今までこうだったから、今回もこうだよね」というものに急にクリティカルシンキングを持ち出したがるとんでもない行動に出ることがある。それ自体はいわゆる経営に必要なマインドと近いところもあるので、前記事でも書いたASD特性を持った人が経営に向いているかもしれないというのは、再び正と言えば正である。
これについては私も常々不思議に思っていて、その理由を考えてみたことがある。
そして、今のところ至った結論としては、自分がそれに納得しているかどうかが大事であるらしい。
要するに、「服が毎日同じでも死ぬわけではない。むしろ、この格好が一番機能的であり、相手にも失礼ではない」「新たなレストランを開拓しなくても十分美味しいと感じているし、栄養的にも特段の問題なし」というような大きな論理的破綻がないと私は割と冒険せずにそれを延々と繰り返していける冒険を好まない性質を持っている。
しかし、ひとたび「そもそも、なんでそのような意味のない慣習があるのか」「このようにすればもっと効率的であるのに、それを妨げているのはただの既得権益だったり、個人的な感情なのではないか」というような不合理に直面した場合、他の人たちがそんな体力使って問題提起するなら黙っとこう、とか人間関係悪くなるから見ないふりが勝ち、という判断に収束するようなイベントに挑むことがあるのである。
自分が平社員だったら、一番横にいて欲しくないタイプの面倒臭い人間である。
そして、当然ながらそのイベントを完遂するにはかなりの体力が必要になるわけで、とんでもない精神的コストを払いながら消耗して会社のためのちっぽけな改善と周囲の大きな困惑を同時に造成していく、これまたおめでたいタイプの人種なのだ。誰に頼まれたでもないのにね。
続く、かもしれない。
この記事へのコメントはありません。