仙人になるまで

私は香港という街が大好きである。
そして、ここでの生活も大まかに言って、とっても楽しいものだと思う。
だから、そういう気持ちは正直にこのブログに綴られることになる。
きっとそれは読み手である皆さんにも多かれ少なかれ伝わることになり、
香港への夢を馳せる人にとっては特に耳障りの良いものになっているかもしれない。

しかし、たとえば香港に来てまだ数年という頃の私にこのブログを書かせたなら
どんな読み物が出来ていたのだろうか。
きっとそれは地獄絵図のようなものが出来ていたに違いない。
迷いなく、そう確信する。

当時、私の目に映る香港にはまだまだ目新しさがたくさん残っていた。
だから毎日どんどんこの街のことを好きになっていくことを感じる一方で
人間関係、とくにオフィスでの香港人との接触については
悪いところばかりが目につくようになり、重度のストレスを感じるようにもなっていた。

特に私の場合、帰国子女でもなければ海外で働く事自体が初めてだったから
旅行者や学生の身分の頃には気にならなかった現実と向き合うことになって
香港人のありとあらゆることにいちいち憤り、自分の中でそれを押し殺した。
それは本当に細々としたことで言葉にすること自体、随分と恥ずかしいものであるが
例えば…

ヒエラルキーの仕組みが全く違う


上司や年上を敬う、というマインドセット自体がまったくなくて、
常に自分が舞台の主役として演じきる香港人。
会社とは対等の契約関係にあり、すべては金次第。

日本人らしさの功罪


こちらの人にとってはJob dutiesに書いてあることをやる限り、あとは自由。
仕事を自分から見つける、なんていうこと自体、気違いじみたことである。
そもそも、日本企業だとか、日本人の働き方については
かなりデフォルメされたイメージが出来上がっており、
それを押し付けられるんじゃないか、という潜在的危機意識が常に働いている。

所詮アウェー


会社のレセプションで暇そうにタオバオを眺めるおばちゃん。
いったい、彼女がどれだけの利益と貢献を会社にもたらしているかは謎であるが
とにもかくにもここは彼らの国なのである。
基本的にはそういう人たちが居心地が良くなるような仕組みが構築されている。
いくら私たちが汗水たらして働こうが、どうにも抗えない事実である。

他にも、大陸の人をはじめ、プロフェッショナルな意識とは遠く離れた
民族的な憎悪に起因する感情論が根強く存在していて
人間関係が基本的にネガティブなところからスタートしたり。

乱暴にいって、とにかくあらゆることがストレスだった。
今の私に言わせれば、
「香港人なんて、人に呪いの言葉(粗口)をかけるのが趣味みたいなもんだし、
そもそも日本人のマインドセットの方が特殊な場合が多いんじゃない?」
なんて爪楊枝をシーハーさせながら軽く済ませられそうなもんだが、
多分そんなことを言って聞かせても、当時の私の心には決して届かなかったはずだ。

香港ライフファイルで紹介する多くの記事も基本的にはそういう苦い経験を
一周回って笑い話に昇華させたものという場合が多い。
いろんな蟠りに沈む日々を越え、私はいろんな部分で諦めることを覚え、
他所様の国で働かせていただいている外国人だという身分だということも考えてみたし、
香港人(というか日本人以外)の仕事への向き合い方も案外合理的だなとも思うようになった。

鉄のメンタルで強く生き残る日本人の方々も多くいらっしゃるが、
私は良く言えば柔軟で、悪く言うならば根無し草的な拠り所のないところがあるので
そう言う風に順応することが一番楽であったように思う。
そうして仙人のように達観してからというもの、香港生活は本当に楽しくなった。

私の香港での生活はおそらく間もなく終わる。
そうした複雑な心境の中、いつもの友人たちと煲仔飯を囲んだ。
その中に浮かぬ顔をする女性たちもいたのである。
出会った瞬間、何か身内に不幸でも・・・?なんて思っちゃうくらいに思い詰めた表情。

聞けば、
「希望に満ちた香港生活だったが、しばらく暮らしてみて
やっぱり楽しいことばかりじゃないな、と。」

仙人、仙人… 。

この街が文章では書ききれないくらい素敵な街であることについては
10年以上暮らした私が太鼓判を押したい。
きっと彼女たちの香港での生活がもっともっと楽しいものになることを切に願う。
そして、やがてまた自分が仙人になって後ろ髪を引かれながら帰国を考える時、
次に来た日本人たちにこの街の魅力を思う存分語って欲しい。
我ながらお節介な老婆心である。

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