トニー・レオンと魚蛋
あんまり褒められた生き方をしてきてない私だけれど
人様に迷惑をかけないように、とは最低限のマナーとして気をつけているから
「法を犯した!」と大袈裟に避難されるような類の行為はしないようにしている。
そういう意味では警察沙汰と呼ばれる難儀なイベントについて
自分が起こしたことも、幸いにして逆に起こされたこともない。
ついでに言うと親や親族、友達がそういうところで働いているということもないから、
警察という組織は私とは随分と縁遠い存在だったのである。
特に日本の警察というのは一体ぜんたい何をやってるのか分からない。
いや、彼らがしっかり働いてくれているからこそ、
日々穏やかに我々が暮らせているのは分かっているのだけど
あんまりお目にかかることがないし、言葉を交わすこともないから
彼らの素性というものをあんまり私が理解していないだけの話だ。
そもそも、興味を惹かれるような組織ではなかった。
ところが、この香港という街で住み始めてみると、そういう私の認識も少しずつ変わった。
簡単に言ってしまうと、私は彼らを同じ街に住む住民として考えるようになったようだ。
街を歩けば、彼らはどこにでも見られるし、それ自体が街の風景の一部。
よく訓練された、精悍な顔つきをしたお兄さん、お姉さんといった出で立ちで
気軽に道を聞くことが出来るような気さくな雰囲気ではないけれど
口喧嘩をするために生まれてきたかと錯覚してしまうような香港市民の罵声にも
ひるまず応酬している姿や、まるで「恋する惑星」のワンシーンかのように
茶餐廳で市民と一緒にご飯を食べてるところもやけに人間臭く、親近感を感じてしまったのだ。
香港の夜は、深夜だって私のようなオッサンはもちろん、きっと女性が一人で
歩いていてもある程度平気だろうし、或いは東京よりもずっと安全と言えるかもしれない。
それは間違いなく香港警察のおかげであろうし、実際のところ香港市民からの信頼も厚かった。
身の回りの香港人たちからも、街の警官を称賛する声が多く聞かれていたように思う。
あれだけ警察に興味の無かった私ですら、いつのまにか彼らのことを頼もしく思い、
一定の敬意と感謝の念を持つようになった。
だけれど、雨傘革命がきっかけだったのだろうか。
街のセンチメント(というか、マスコミと一部市民だと思うが)が変わったような気がする。
そして、昨夜起こったこと。
たしかに市民に銃口を向けるというのは危険極まりない行為だとは思うけれど
そんなことを批難するよりよっぽど考えなきゃいけないことはあるんじゃないだろうか。
そもそも、警察は治安維持の目的のために動く執行機関であって、
それに対して暴力的な挑戦すること自体が政治的な交渉をポジティブに進行するような
性質の組織ではないし、警察側ももちろん私的な感情で動いてるわけでもない。
怪我すりゃ普通に血が出てくる生身の人間の集まりであって、彼らにもそれぞれ家族だってある。
個人的に689こと梁振英や香港政府のやり方に不満を持ってるけど警官だって
いっぱいいそうなものだけど、何はともあれ彼らの職務は治安の維持なのである。
そういう意味ではやはり彼らはトニー・レオンが演じた警官のように
この街の平和を愛する真面目な一市民であるはずなのに、
それを無理やり相手取って「ヤッタ、ヤラレタ」とか警察もいい迷惑である。
ただでさえ口の悪いこの街の住民にさんざん悪態をつかれた上、挙句の果てには暴力。
小販にかこつけて裏で糸をひく過激な政治団体。
本当にデモ起こしたいのはむしろ警察の方なんじゃないだろうか。
ともあれ、警察を叩くこと=政治に意見することと錯覚しているかのような報道や
香港市民を見ていると、少し歪んだ見方をしてるんじゃないかと危惧してしまうし、
せっかく雨傘革命で平和的に(少なくとも非暴力)デモを推し進めたというのに、
後に続く抗議活動がこれでは香港の将来がますます不安になってくる。
まったく政治を追って無い私の一般市民が持つ肌感覚で物を言うと、
今後も旺角からは政治という分野であまり建設的な動きが起こるような気がしない。
また、あのトニー・レオンたちが胸を張って街角を歩ける日はやってくるのだろうか。
この記事へのコメントはありません。