日本のココロ

昨今、私は仕事のやり方だったり、日常のコミュニケーションの方法、一般的な価値観等、
大小様々なものに至るまで日本人の生き方について、いろんな疑問を持つようになって来ている。
そして、それらは往々にして、私が持つそれほど数が多いとは言えない日本との接点において、
フラストレーションを感じる時に浮かんでくるものばかりだから、
基本的な性質はネガティブなものばかりだ(あくまでも私の主観的な見方からすればだが)。

「電話にしたって、メールにしたって、余計な挨拶や言い回しがくどすぎる。」
「見え透いた気遣いなんてしなくても、ビジネスなんだから必要なことはしっかり言うべき。」
「丁寧に物事をすすめるのも良いけれど、そんなに難しいことじゃないんだから、すぐ出来るでしょ?」

要するに、自分の周りで起こる様々なことに常に一定程度の効率性を期待しており、
それに対して自分が納得できる結論を見ない時に、目につきやすい日本文化の負の面を粗探しして、
「国際標準との差異」という大正義のもとに容赦と疑いを持たずに断罪する、
という海外在住者が陥りやすい、とても安直な思考回路を私は持っているというわけである。

「この人は日本人だけど、何だか海外擦れしてるかも。マインドセットが私と違う。」
こちらに来たばかりの頃、香港が長い日本人に会うたびによくそういう風に思ったものだし、
少なからずそれについて心地よい感情を抱くものではなかったような気がするけれど、
私も大なり小なり同じような道を進んでいるのかもしれない、とも最近考えることがある。
そして、昔の私と今の私、どちらが正しいのか。そういう答えを残念ながら私は持っていない。

ただ、言い訳するならば、この街で、そして私のような環境でリーマンをやろうと思うならば
ある程度自分をローカライズしないといろんな意味でやっていけないんじゃないかと思う。
なんせ日々あのアクの強い香港人たちと上手くやっていかねばならないし、当然なことながら
彼らにとって日本の当たり前は当たり前ではないから、お客であるこちらがやり方を変えるしかない。

それに、私たちはお互いを思いやることを前提としてコミュニケーションをするけれど
裏を返せば「これだけやってやったんだから、きっと向こうも同じことをしてくれるだろう。」
という見えない見返りを相手に求めていたりする。そして、そういった期待がことごとく
裏切られることが続くと(別に相手に悪意があるわけではないけど、良かれと思ったことが
そう受け取られてないことが多いのね)必然的に強く、図太く、たくましい心の持ち主に
なることが要求されるわけであって、逆に細やかさだったり、必要以上のおもてなしといった
類のものは犠牲になっていく。(というか、表面だってアピールしなくなってくる)

もちろん、香港人には港式の対応、ヨーロッパ人とはヨーロピアンスタイル、日本人には
おもてなしの心。と使い分けができる心の余裕がある人こそ一流と言えるのだろうけれど、
(もしくはどんな人とあっても揺るがない個性の持ち主とか)残念ながら
私のような至らない人間にはそういう器用な身の振る舞いができないという可哀想なお話でもある。

そういうわけで、私は日本での生活に潜むいろんな非効率性に対して、身勝手な不満を抱いている。
香港=単純で分かりやすい、日本=何かと面倒くさい。分かりやすく言うと、そういうイメージ。

そんな私がまた京都を訪れた。
20代の時とはまた少し違った、いろんな意味で自由な旅だから行動範囲も広がった。

祇園で言葉を交わした舞妓さんたち。街を行き交う京都市民。日本文化の髄が集まる街並み。
頑なに守る日本古来の伝統と、京都という独自文化に対する自負に溢れた街に
あらためて触れると、何だか私の中の日本観に一度リセットボタンが押されたような気持ちになった。
強烈な個性を持っていて、それでいて住んでいる人もそれを誇りに感じる街。
そういう場所にはいつも心を動かされてしまう。(もちろん、香港もそういう場所)

海外にあって日本人はどうあるべきか。
この個性溢れるアジアの街、香港での自分の正解は何なのか。
日本にしても、香港にしても知らないことが多すぎるが故に、
(不満を抱くことはあっても)いまいちフラフラしている自分がもどかしい冬の京都であった。

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