香港人が山頂に登るとき

行きつけの美容師さんは歳も私とほとんど同じくらいなのだけれど、
彼女は若くして自分のお店を持ったし、いかにも香港人的なリズムで仕事をチャキチャキと
こなしていくから、一般的に見て頼りがいがあって、素敵な女性なのだろうと思う。

この街にはそこらへんの男(私ももちろん含まれる)なんて、まるで歯が立たないような、
自分の道をしっかり自分で切り開ける、強くてデキる女がそこら中を闊歩しているけれど、
彼女もそのうちの一人にカウントされて然るべきな人物なのである。

しかし、なぜか私のカットを始めるとなると彼女の姉御肌はどこかに行ってしまうみたいで、
店を切り盛りしていくことについてだったり、プライベートに関する悩みといった類のお話を
こちらがうとうとしながら聞いてあげるというのが私たちの付き合い方。

彼女は随分前に仕事をやっていく上での大事なパートナーを失った
それから未だに上手に立ち直れてなくて、サロンでも彼女の後ろ姿はどこか寂しいし、
まるで失恋しちゃった女子高生みたいな表情を瞬間的にのぞかせてもいるのだけど
そういう事の顛末をよく聞かされてる(!)私だから、彼女も自然体で接してくれているようだ。

そんな彼女の美容室を先日訪れたときのこと。
「ねぇねぇ。香港で一番好きな場所ってどこ?」
軽快なハサミさばきの合間に突然に投げかけられた問いだった。

あんまり聞かれたことのない質問だったから、私はちょっと考えこむ。
休みの日のブランチによく使う、家の近くの小さなお気に入りのレストランが頭に浮かんだけど
もしかして外国人らしい答えを求められているのかしら?とも思い直してみて
花墟から雀仔街付近をブラブラすることや中環のエレベーターを登りながらフェイ・ウォンを
想うのが好き、とかそういう答えも用意するだけしてみようとした。

「私はね、何か悲しいことや嫌なことがあると山頂のカフェに行くの。
別に美味しいものがあるとかじゃないけど、悲しいことがあると何故か、ね。」
私の答えを待ってるわけじゃなかった。

私は自他共に認めるくらいに鈍感なところがある人間だけど、ここが日本ならいざ知らず
香港という街で香港人という人種にそういう心の機微にまつわるような問答を求められていた
っていうことにまず驚いたし、あの観光客が絶えず押し寄せる落ち着かない場所の片隅で
人知れず涙を流す香港人がいるっていう事実についても複雑な想いがした。

香港人っていうのは可哀想な人たちである。
この街では人前では常に都会人らしく、強く、ドライに、時には虚勢を張ってまで
生きてなきゃいけないから、それだけでも大変だというのに、自分の場所を持ってないのである。

そりゃ広い家を持ってて、自分だけが何日間だって閉じこもれる部屋があるっていうなら
話は別だけれど、そうじゃない人の方が多いのだろうし、
彼らは自分一人思う存分沈んでいける場所に困っちゃうのだ。

いくらかは美容師の彼女のように山頂に行くのだろうし、星光大道に行って
夜風に吹かれながら夜景を見ている人たちもかもしれない。(私もこれは好きだなぁ)
さらには「家の近くのPage One(本屋)に行く。」っていうのも聞いたことがある。
本屋まで泣き場所に選ばれるような街なのである。
もっとも、街ですれ違う誰かが涙が流してたって気がつくようなこともないのだろうけど。

彼女は自分の過去の思い出話をいくつか話した後、やっぱり「ねぇ、あなたは?」と
ハサミを一瞬止めた。残念ながら、私が事前に用意した答えたちはとてもじゃないけど
使いものにならなくなっていて、私はとっさに「大美督かな。」と口に出したらしかった。

それは私が香港に来てから初めて居を構えた場所であったし、いまだにあの場所に帰ると
とっても懐かしい気持ちになる、確かに自分だけの特別な場所のつもりだったのだけど、
それを聞くなり、

「え?バーベキュー?バーベキュー好きなの?」
(大美督は香港人たちがBBQするためによくやって来る場所でもある)

とか大笑いされてしまった。
この日本人はまったく女心を分からないただの食いしん坊ね。
そういう失笑もそれなりの割合で混じっているような気がしたから、
今後はいつそういう質問が飛んできても困らないように、
もうちょっと女性に共感を得られるような答えを考えておこう。

私は静かにそう心に決めたのだった。

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