冷蔵庫に走る戦慄

当事者たち以外にとってはまったくもってどうでも良いことなのだが、
オフィスの「冷蔵庫の中にある何か」をめぐって、戦慄が走っている。

冷蔵庫が臭いのである。

それ自体は大して珍しいことでもないし、私も学生時代には冷蔵庫内で
いろんな食べ物を腐らせる実験(事故)を行ってきた自慢出来ない過去を持つけれど、
そんな私でも想像を絶する「くさい」というより身の危険を感じてしまうレベルの
「危ない」香りがオフィスのそれから放たれているから大事件なのである。

一度それが開かれれば、瞬く間に殺人級の臭いが部屋中に広がってしまい、
みんな仕事の手を止めてしまうし、不幸にもそんな危険物の前に座る子なんて
それが理由で辞表をしたためることもやぶさかでない、といった沈痛な表情。

さらに困ったことに、その常軌を逸する臭いの原因を突き止めようとしたって、
常人なら3秒も開けていられないようなレベルの代物なので、視認は不可能ときている。
我々にとって、目に見えないもの、理解できないもの、知らないものに
出会った時の恐怖は脳内で何倍にも増幅される。我々は一時的に恐慌に陥った。

冷蔵庫に設置された非人道的化学兵器は一体何なのか。そして、どこのどいつが事件の犯人なのか。

もっとも、後者に関しては各々だいたいの目星はついていたと言えるだろう。

大雑把に説明して、この部屋には中国本土からやってきた人(ここでは中国人と言おう)、
それから地元民である香港人、さらには私を含めた日本人が働いていて、
この3つのグループの中のどれかに犯人は所属しているはずである。

そして、各人の机の上の様子、普段の性向、国民性およびその他もろもろの条件を前提に
犯人を予想するオッズがあったとしたら、きっと中国人(1.1倍)、香港人(20倍)、
日本人(万馬券。尚、希望的観測)くらいが我々のコンセンサスなのだと想像される。

それほどまでに中国人たちのライフスタイルはオフィスの中でも異彩を放っているし、
私も給料3ヶ月分くらいを前借りして、全てを中国人にぶっこみたいぐらいの
自信を持って、犯人は彼らのグループの中にいると確信していた。

「普段あれだけうるさい香港人だから、放っといたって彼らのうちの誰かが
容疑者に面と向かって大声で怒鳴り散らして、早々に事件は収束するであろう。」
それが私の想定するシナリオであった。

そして、事件発生数日後。
その目論見通り、とある香港人が容疑者と思しき中国人と接触しているのを私は確認する。
この香港人、可愛い顔をしているが、一度キレると粗口が止まらない狂犬のような人物である。
対して、容疑者は新卒のあどけない顔をした中国人。香港人による圧勝は明白であった。

香港人「あのさ、冷蔵庫の中のキムチ(彼女にはキムチに感じるらしい)、あなたの?」
中国人「うん。」
香港人「そうなんだ。ふーん・・・。」
中国人「・・・・うん?」
香港人「あ、いや・・・、何でも。」

会話はあっという間に終わってしまった。
当然、私はとんだ肩透かしを食らったわけだが、翌朝、さらに衝撃的な光景を目にする。
あの香港人の彼女が健気にレモンを切って、人知れずそれを冷蔵庫の中に放り込んでいたのである。
私には全く持って予測不能な展開であった。
… 日頃のあの毒舌はどこへ身を潜めてしまったのだろう。

やがて、チームの子も出勤してきたところで私は気の知れたスタッフに朝見た光景を語り始める。
「あんなのさ、みんなに迷惑かけてる公害みたいなもんじゃん。怒られてしかるべき。
香港人、少し優しすぎない?普段、うるさいくせにさ。」
私も迷惑を受けていているひとりであるし、今朝の彼女の行動も理解できなかったから、
珍しく私は熱っぽく問い詰めていたんじゃないかと思う。

だけど、香港人の反応は「私が我慢すればいいだけだし、どうにも我慢できなくなったら・・・。」
といった私より少し温度が低いものだったから、何だか物足りなく思えた。

その日の午後、眠気をかき消すために事件に関わる人たちのことを私は考えていた。

事件を起こした中国人。
彼女に間違いなく悪意はない。保存したかったものを冷蔵庫に入れた。事実はそれだけである。
誰かに迷惑をかけていることもきっと知らない。
周りがザワツイているのだって、自分が原因だなんて想像もしたことがないだろう。
そういうのびのびとしすぎた環境で彼らは育ってきている。
迷惑をかけること、かけられること、そしてそれに対して怒られることにも限りなくイノセント。

そして、傍観する日本人。
人様に迷惑をかけないように気をつけていきている分、かけられることにもセンシティブ。
普段はおとなしく生活しているのに、暗黙の了解をちょっとでも逸脱する行為を行う者は、
何の疑いもなく数の暴力をもって懲罰対象とすることに疑いを持たない。
尚、善悪の判定基準(暗黙の了解)は実生活における必要最低限を遥か超越したレベルで設定。

最後に、香港人。
この人たちが一番不可解な行動を取り続けているのだけれど、おそらく私が思う彼らの行動基準は
自分が直接的に被害を受けること(この判断もたまにトリッキー)や、自由を脅かされることに対しては
激しく反発するけれど、それに抵触しない限りで他の人が好き勝手やることに関しては意外に寛容。
非常にポジティブに形容するなら、お互いに自由(というか、一定の遊び)を尊重しあうことが
この社会では大切で、他人のテリトリーのことまで干渉することは極力自重しているのかもしれない。
(そういう意味では普通選挙は自分のことだとしっかり認識しているんだよね。)

ーそういう人たちとオフィスを共有している。

数週間前に始まったこの事件、驚くことに現在進行中である。
騒動を起こしている物体の正体もわからないし、犯人ももちろん糾弾されたことはない。
冷蔵庫からは相変わらず何かの死体でも入ってるんじゃないかと思うような臭いが漂っている。

これからどんな展開が起こるのかとても興味があるから、私も放っといてみているのだけれど、
例のブツはきっといつか何も無かったかのように、毎朝やって来るおばちゃんのゴミ袋の中に入って
運びだされていくのだろう。ただ、それだけのことなのである。

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