旅をする本

もう20年くらい昔のお話になってしまうけれど、私は岡山という街で
高校入学の日を迎えていた。転勤族の生活にすっかり慣れていたから、
新しい学校に進学したというのに同級生に知り合いがいるということに
少し違和感を感じ、その一方で何だか心強い気持ちにもなっていたのを今でも覚えている。

1年F組の教室は学校の中でも特に歴史ある建物の中に位置していて、
夏は試験用紙も汗でびっしょり、冬は仲間で身を寄せ合い寒さを凌がねばとてもやれない、
といったシビアな勉強環境だということが後に判明するわけだけれど、
その日は心地よい春の風が吹き込んでいて、まるで私たちを歓迎しているかのようだった。

入り口に貼られた座席表にしたがって、着席する。
出席番号は4番だから、一番左の列の前から4番目の席だと決まっている。
興奮気味に次から次へと入室してくる新しいクラスメートたちを
ぼんやりと眺めているとやがてひとりの男子が私の後ろの席に音もなく座った。

他の生徒と違って、中高生特有の鬱陶しいくらいの暑苦しさが感じられず、
飄々とした雰囲気で涼しい眼をしているから掴みどころがないタイプ。
ーー物静かで主張がないからいまいち印象に残らないヤツだよな。
それが出席番号5の男との初対面の印象だった。

その日の私が知ったなら、まさか!と驚いただろうけれど、この5番の男こと
シタミチ君と私の距離は日に日に縮まっていくことになる。

二人でバスケ部の門を叩いては、1ヶ月もたたないうちに辞めた。
私がまたラッパを吹き始めた頃、彼は隣の軽音部でベースを鳴らしていて、
彼のバンドが演奏している時には私がラッパで乱入し、彼も私の部室に
やってきてはベースでなく、なぜかコントラバスを弾いた。

どうやら感性が似通っていたようだから、いつも一緒に夢物語ばかり語っていたし、
終いには同じ女の子を好きになってしまったりもして、面倒くさいこともあった。
シタミチ君は漫画から出てきたように顔が小さく脚が長かったから、
ファンの子も多かったし、私の親友だった女の子もそのうちの一人だった。

三年の夏、私が人より遅れて受験勉強を始めると、シタミチ君は絵を描いた。
彼のおじいさんが絵描きだったとはいつか聞いたことがあったような気がするけれど、
いきなり美術学校へ通う決意を聞いた時はびっくりさせられた。

後に彼は武蔵野美術大学油絵科に入学し、なぜかカメラマンに転向という運命を辿る。
日本国内にとどまらず、海外にまで旅をしながら日常の風景に何気なく溶け込んでいる
「戦争のかたち」を写真に収めること。それが彼の現在のライフワークである。

もうすっかり連絡も途絶えてしまって、彼も私のことを覚えているかすら
怪しいけれど、そんな彼がちょっと有名になってくれたおかげで
私は今でも彼の活躍ぶりをウェブ上のいろんなソースから垣間見ながら
元気を分けてもらうことを楽しみのひとつとしている。

学生の頃から人とちょっと違うことをやりたがって、ユニークなことばかり
やっていた彼だから、人生をより豊かにするべくやっぱり今でもいろんな面白い企画を
行っていて、その中でも「旅をする本」は秀逸なアイデアだと思った。

自分の所持していた本に図書カードみたいなものをつけて、まず友人に譲る。
それはやがてまた別の人に渡り、次から次へと持ち主を移していく。
まるで旅をしているかのように本が国境を越えて、世界をかけ巡っていく。

渡すものは何でもいいのだろうけれど、本であることの意義は大きい。
本は人を選ぶ分、持ち主とその後継者の間に一定のシンパシーが生じなければ繋がっていかない。
そういう意味では自分の手を離れたものが共通の感性を媒介とした新たな出会いを
連続的に生んでいく、というロマンはシタミチ君の心をくすぐり続けているはずである。

最近、私のところにも本が届くという嬉しいお知らせが入った。
しかし、それはシタミチ君をルーツにするものではなく、
送り主は直接的にお会いしたことのない謎の女性ということになっている。
そして、この本の国を跨いだ旅に一役買っているのは、・・・あのMeet at 美孚の人。

公に文筆家として活躍するミステリアスな女性の影は、ネット上に残された
彼女の痕跡からある程度のシルエットを描くことができるような気がする。

眼で見たものを心に響く言葉を使って巧みに、そして嫌味なく書ききる力。
女性ならではの柔軟な考え方と高い感受性。
でも、そういう物書きとしての最低要件みたいなものよりも私を惹きつけてしまうのは
人やモノに対していつも一定の距離をとっているかのような彼女の絶妙な立ち位置。

時にそれは突き放すようでもあり、自分の世界を強く主張するようにも見えるけれど
それでもどこかで彼女の言葉に共感してしまうのは、彼女自身が世の中に
本気で覚めてるわけじゃなくて、むしろ日常の中に潜んでいる楽しさや幸せに
実は人並み以上に期待しているところを隠し持っているのかもしれない。
そう想像できる節があるから。私はそんな少しややこしい読み方をしている。

そして、この謎の女性もやはり無類の香港好きだという事実もやがて判明する。
身も心もパリ一色だった彼女がある日訪れた香港に一瞬にして恋に落ちる。
そんな映画みたいな物語の一部始終を綴った彼女のエッセイはもう何回も読んだ。
それはまさに私が本当に書きたかった香港の姿が凝縮されたような世界観で、
これから私が書くことなんてもう何もない、とすら思うようなものだった。
それが故に最近私もボツ記事が多くなって困りはててしまっているほどに。

時々、美孚の人はどこか私以上に私を知っている部分があるのだと考える。
だから、今回の「旅をする本」も来るべくして私のところにやって来る。
そうして、ちょっと欲張りな私はそれが届く前から心の中で呟く。
せっかくだから、旅はちょっと休憩して私の手元で少しゆっくりしていったら?

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