法國五月
香港文化中心 ー 夕刻。
満員とは言わないけれど多くの観衆が詰め寄せた会場の中で厳かに鳴り出す弦の響き。
やがて主題は現れ、それが繰り返されるうちに音楽はどんどん彩りを帯びていく。
綺羅びやかで心地よいワルツが駆け抜けた後は、いよいよ熱狂と混沌のクライマックスへと向かう。
ベルリオーズ「幻想交響曲」。
夢と情熱を抱いた若い作曲家が見事に恋に燃え上がり、そしてそれに激しく敗れる様を
音楽にしたという異色にしてフランス音楽を代表するこの作品は、その奇抜な曲想と
類まれなる音楽性の高さをして、古くから多くのクラシックファンを魅了してきた。
もちろん、私もそのうちの一人。
普段、どちらかと言うとマーラー、ブラームス、ベートーヴェンといった重厚なドイツ系音楽を
より好むけれど、この幻想交響曲は数少ない私のお気に入りのフランス音楽のひとつで
特に第一楽章から第二楽章にかけての得も言われぬ美しさの虜になってから久しい。
そういう背景がある私だから、地元の雄である香港フィルが開催するこのコンサートの片隅に
席をとっていたことも至極当然であろう。長い間、楽しみにもしていた。
それだと言うのに、音楽が始まるや否や、私の表情は曇り始める。
音色、響き、リズムの取り方。・・・全てがちょっとずつ違う気がする。
それはちょうどカメラ好きのオジサンが、おおよそ綺麗に撮れているであろう写真を目の前に
被写体深度が・・・、シャープネスが・・・、と重箱の隅をつつく姿に似ているのかもしれない。
目の前にあるのは中国各地から才能溢れる若者を集めた、まさしくプロ水準の音楽集団。
ひとつの芸術を噛みしめるために。ライブの臨場感を味わうために。
そう割り切って楽しめばいいのに、ちょっと思い入れのある曲になると私は面倒臭い人になる。
特にフランス音楽というものがこの楽団にとってあんまりにも異質なものに思われてならなかった。
「君が代はね、やっぱり日本人が演奏するのが一番だと思うよ。」
やがて、小学校のブラスバンドの先生が常々繰り返していたそんなシンプルな言葉に私は帰着する。
ーすべからくそういうことである。
今年もLE FRENCH MAYの季節が訪れた。
狭い街だから、イベントでもやろうものなら、苦労なくして情報が入ってくるのが常だというのに
これだけ自分から情報を取りに行かないとキャッチアップできないものも珍しい。
もっとも、山に近い地域ではにわかに盛り上がりを見せているのかもしれないが、
残念ながら私の生活圏では、ランチ中の話題にすらかすりもしないような代物である。
せっかくこんな楽しげなものが企画されているのにもったいない。 …そう思う一方で
パリと香港というほぼ対極に位置する二つの街のことを考えると、妙に納得もしてしまう。
先に挙げた「君が代なら日本人」理論のこともあるけれど、それはあくまでディテールまで
目を見張ったときに多少の誤差が発見されることの類を論じてるわけで、これは別次元のお話。
そういう意味では、この香港という街に一切の親和性を持たないと想像されるフレンチの象徴、
LE FRENCH MAYというイベントは私の中では誰にもシェアできない自分だけの密かな楽しみ
であると同時に、来年こそ本当に廃止の危機なのではという頼りない存在でもあった。
ーそんな中、私はとあるフランス人たちとランチミーティングを持つことになる。
普段、ジョークなのかそうでないのか分からないようなことばかり囁いては遠い目をする彼らが
アジア、特に中国のことになるとまるで金鉱でも見つけたかのようにビジネスの情報交換を始める。
ちょっと前の日本人がそうであったかのように。
「香港ではね、フランス人であるってことがビジネスをやる上ではアドバンテージにも成り得るんだ。」
そう言い切ってしまう不敵な顔には自信が満ち溢れていて、話を聞けば聞くほど
彼らが思いの外強固な在港ネットワークをもっていることも明らかになっていく。
それはフランス商工会議所に始まる公的なものから、プライベートなハングアウトまでまさに形は様々。
そう言えば、うちのパリオフィスのメンバーだって、短い香港出張だというのに
現地のフランス人たちとの友好を深めるべく、クルーザーで離島にまで遊びに行ってたっけ。
いつもより随分とのんびりとしたランチが終わって、私はひとり何だか合点がいったような表情だ。
これを杞憂と呼ばずしてなんと呼ぶのか。
少し気楽な気持ちになって、再びイベントプログラムを手に取った。
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