フラミンゴの池

それは私が初めて香港を訪れた日の夜。

あぁ、やっぱり暑いな・・・。
尖沙咀の日本人旅行客御用達とも言えるホテルの自動ドアが開いたところで、
亜熱帯特有の湿った、そして妙に生暖かい風を再確認する。
空港を一歩出た時に感じた悪夢のようなそれはやはりここでも吹いていた。

橋から見下ろす広東道は夜も遅いというのに店を閉めるどころか、
深夜が近づくに連れてますます元気を増すばかり。
通りを行き来する人たちの表情も成田空港で見てきたそれらとは違って明るく、
今私を汗だくにさせているこの熱気ももしかしたらこの人たちから
発せられているのかもしれない、と思わせるほどの生命力に満ちたものに感じられた。

そんな賑やかな通りを横目に私は橋を渡りきり、緑が生い茂る公園へと迷いこむ。
彌敦道と広東道という尖沙咀きっての交通量を誇る二つの道路に挟まれているというのに、
ここだけ暗く、ややひっそりとしていて、別のテンポで時が流れている。
空港からホテルへと忙しくやってきて、ちょっとだけ中華料理特有の香辛料の匂いがする
この街の空気を吸い慣れていない私にピッタリの散歩道を用意してくれそうな空気。

公園に入ると間もなく、香港人たちより一足早く夜の休息をとる大勢のフラミンゴたちが
一本足でうつらうつらとしている池が見えてくる。
夜の闇の中で感じる彼らの気配。時々聞こえてくる鳴き声。
寝ているうちに隣の鳥にぶつかって、「あら、ごめんなさいね」とでも言ってるのかもしれない。

行き先を持たない外国人の私は少し腰掛けて、久しぶりの一人の時間にひとつ深呼吸をする。
広東道の方からは時々理性を失ったようなクラクションが鳴り響いてくる。
それ以外は目の前の池の方から聞こえてくる鳥たちの身震いの音だけ。夜だけど、星は見えない。

しばらくボンヤリしていると不意に鳥ではない何かの気配を感じる。

「こんにちは。どこから来たの…?」

ちょっと黒ずんだ皮膚をした男の顔は薄暗い灯りの下でははっきりと顔立ちが分からない。

「Japan…」

男のトーンは少し上がって、まるでシナリオに組まれているかのようなトークを続ける。
仕事は何を?何人で来てる?明日は何するの?
今思えば英語で話すことなんて慣れていない私でもきちんと聞き取れる話し方をする男だった。

旅行者であり、かつこの街の独特の喧騒と熱気に興奮気味だった私の心の扉は
いつもより随分ロックが甘く、ちょっと押してみるだけで簡単に開いてしまう。
香港の人は随分とフレンドリー。いや、南アジア特有の顔立ちのこの人も旅行中なのかな。

旅先での突然の出会い。
お互い旅行者だからこそ異様なテンションで意気投合してしまう刺激的な瞬間。
そういうものには私は常にオープンでありたいと思っている。
でも、残念ながら今回は相手にその気がなかったのだと思う。

「明日、船の上でカジノやるんだけど、一緒に行かないか。
友達がディーラーやるから、僕たちだけがボロ儲けって手はずさ。」

「え?お金が儲かるチャンスだっていうのに?
だったら、日本に妹が住んでるから日本語教えてあげてくれない?
ほら、今から電話するから彼女と一緒に話してみてよ。」

… かくして私の香港における初めての友達作りは失敗する。

それから10年近くたった今。
私はランチタイムに同僚たちと会社の目の前のその公園の中を歩いている。
あの時と同じように橋を渡って、彌敦道の方へと向かう。

優柔不断な私たちは何を食べるかなかなか決められないから、
佐敦で安くあげるか、亞士厘道で適当に入るか、はたまた美麗華・尖東方面へ遠出か。
公園のなかの十字路にぶつかるまでに、ああでもないこうでもないと行き先を決定する。

そんな中、私はいつも会話には参加しないでフラミングの池あたりに目をやっている。
あの日の私みたい底知れない香港の魅力を目の前に、
ちょっと興奮気味でこの公園に迷い込んできた日本人がいないかって。

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