だれでも出来るお友達の作り方(香港・下町版)

雨が降ったりやんだりといういたずらな夏の日の午後、私は元朗にある
友人宅のふかふかのソファーの上で涼しいクーラーを楽しんでいた。

この友人、私が所用ではるばる元朗にやってくるのを聞きつけて、
サウナのように蒸し暑い香港独特の熱気の中、頼んでもいないのに
街案内から私のお手伝いまでこなしてくれ、終いにはついて回るだけで
疲れた顔をしている情けない日本人を自分の家にあげて労ってやる、
という苦行を笑顔でやってのけている。

ちなみにこの人、私の同僚でもあるのだが、かれこれもう5年の付き合い。
異国の地で暮らすものとして、こういう面倒見の良い友を持つということは
大変に心強いものだと思う一方で、(彼がどう思っているかは知らないが)
私としては近年彼とこうして仲良く出来ていること自体に
かなり感慨深いものを感じているのも確かなのであった。

目と目が合えば、ニッコリ微笑む。なんてあるわけねぇ

そもそも、彼との関係は会社の同僚という形態から始まったわけだが、
出会ったばかりの頃といえば、私は彼に対してそれはもう
今とは180度違う評価をしていたのをよく覚えている。

安っぽい笑顔を振りまく私をまるでよそ者扱いにしては
「俺に話しかけて仕事増やすんじゃねぇ」オーラを泉のように
湧き立たせているような近寄りがたい人物であったし、
何か仕事のことで聞いてみても、「唔知(知らねぇ)」の一点張り。

大体、香港人自体にこの類の人は多いのではないかと思っている。
こちらが頑張ってフレンドリーにニッコリ軽く挨拶してみても、
ムスッとした顔で、意味ありげに眉間にシワを寄せるのみで、
平気で私を無視するような連中がザラにいる。

それに、どうせ帰ったってゲームか漫画くらいしかやんねぇだろ、
と思ってしまうようなヤツだって、忙しそうなふりをしているから、
私としても仲良くなる糸口を探すのも一苦労なのである。

そういう意味では第一印象が良い香港人にはあまり会った試しがない
茶餐廳のおばちゃんたちという特権階級の人たちは言わずもがなだが、
うちのマンションのセキュリティだって他の人には喜んでドアを
開けるのに、新参の私にだけは仁王立ちで挨拶無しってことも多々。

知らないヤツにはひとかけらの愛嬌すらも振りまかないのである。

ヤツラが友を選ぶ基準とは

では、どうやって彼と私の距離は縮まったか、であるが、
これについては残念ながら私にも分からない。

私の個人的な分析によると、香港人が友達になってくれる状況については
次の二通りに大きく分類されるのではないかという見方が優勢である。

1. 友達になることでメリットがある場合
2. なんとなくその日の気分で

前者については解説はいらないだろう。
自分にプラスになる人とお近づきになりたいのは各国共通である。

だが、悲しいかな、私の場合は人様に自慢できるようなすごいスキルや名声、
コネクションがあるわけでもない平凡な日本人であるから、
香港人としても自分からヘコヘコ擦り寄ってくる理由が全くない

私にせいぜい出来ることと言えば、日本に戻った時に「そんなの香港でも
買えるやろ」なぬいぐるみを女子高生に混じって物色することや、
「えっ、何この漫画。私、日本人なのに聞いたこと無い」な、お宅のみぞ知る
マイナー漫画を「日本でこれ買ってくるまで香港に帰ってくるな」リスト
を握りしめて、店員さんに加勢を頼んでまで調達するくらいのことである。

であるから、日本に興味のない香港人にとっては完全に
「持たざる者」である私は消去法的に2.の「なんとなく」を
待つしかない、という悲しい身分の架仔なのである。

何の前触れもなく開かれる心の扉にビビる

だが、それについてあまり悲観的になる必要もなかろう。
というのもこの「なんとなく」は結構な確率で訪れてくれる。

しかも、ある日突然、何の前触れもなく起こるのである。

例の彼の場合も、相変わらず仏頂面で私に接してきていたのに、
なぜか急にランチに誘われて、見たこともないような笑顔を見せてくれたり、
週末の登山活動参加者リストに勝手に名前が加えられてたりなんてことも。

昨日までは鬼のような形相をしていた茶餐廳のおばちゃんが突然
「靚仔, 飲凍檸茶, 係唔係(はぁと)」なお茶目な(やっぱり)おばちゃんに
変身していたりもするから、私の頭の中は「?」でいっぱいになるのである。

これは何かをきっかけにというより、ある日突然別人になったかのように
スイッチが入るようなのであるが、それがいつ起こるかは当然予測不可能。
だから、気長にその日(要するに機嫌が良い日ね)が来るのを待つのみだ。

そういう意味では、初対面の香港人に素っ気なくされたからって、
嫌われてるとか、私の広東語に問題が・・・とか落ち込む必要はない。
それが彼らのデフォルトの初動であるし、挨拶みたいなもんである

あんなに無関心で計算高かった人たちがあら不思議

こうしてアクシデント的に距離が縮まってしまえば、後は簡単。
知らない人にはとことん冷たい香港人であるが、
一旦仲間意識が生まれてくれば、抜群の面倒見の良さを見せてくれる

香港人と話していると、仲の良い人に対して「あいつは俺の兄弟だ」とか、
「私の姉ちゃんは・・・」とか、血のつながりなんて全くない癖に
勝手に家族関係にしちゃってるちゃっかり者が結構いることに気付く。

そういう関係にまでなってしまえば、これはもうしめたもの。
「自己人」というヤツである。

時と場合によってはネガティブにも考えられる概念ではあるが、
自分の身内だと思われるような存在になれば、普段あんなに計算高く動く
香港人がなんと見返りを度外視して助けてくれるようになるのである。

もちろん、これはインタラクティブな関係であるから、
いちいちやったことに対して謝礼も求めないし、
自分も彼らのことを労ってやるということも前提条件だが、
それについては特に拒絶するような理由もなかろう。

普段、この香港ライフファイルでもさんざん香港人の生態を
面白可笑しく書き立ててはいるものの、どこかで彼らを
憎めないでいるのはこういう一面を知っているからなんだと思う。

 じゃあ、逆に香港人は日本人をどう見てるのよ

ちなみに、香港人にとって私は日本人という外国人なのであるが、
それについて一体全体どんな印象を持っているのだろうか。

恥を偲んでいえば、初めて香港を訪れた時、若くて無知だった私は
自分が日本人であることにちょっと奢っていた記憶がある。
日本という国自体がアジアの先駆的存在であり、それが国内外ともに
同じ認識を持たれているものと信じていたから。

それは少し昔の香港であったならば、あながち間違った評価でも
無かったかもしれない。高品質で時代をリードする家電、ゲーム、(AVも!)
といった製品や文化を常に輩出し続ける憧れの国であった可能性もある。

しかし、今日、そうした神話はとっくに崩れさってしまったのではないか。
そういう意味では国のイメージで少しプラス補正してもらうという
恩恵も今日ではあまり期待できないということになる。
(AVはまだまだ健在のようだけど、あんまりメリットはないよね)

そもそも、激動の歴史の中、したたかに生き残ってきた香港人である。
無条件に他の民族に畏敬の念を持ったり、劣等感に悩むことはしない。
常に自分という基準を持っていて、覚めた目で世の中を眺めている。

みんながみんな親日でもないし、センシティブな部分だってあるわけ

それから、香港を誤った意味で完全な親日派だと思うのも間違いな気がする。
もちろん、本土のように議論の余地もないような反日思想をもった人は
あまり見かけないし、理性的な意見を言う人も多いように思う。

だが、香港の歴史を考えたときに、今の若い世代のように
生まれたときから香港っ子という人もいないことはないが、
本土にルーツを持つ人、深センとの間に流れる川を勝手に泳いで渡ってきた人、
なんてのが上の世代にはザラにいる都市である。
(香港自体も戦場になってしまっているしね)

そういう意味では、一見日本の文化や製品が広く愛されている
土地と気風ではあるけれど、それが手放しの日本賛美かというと
そうでもなかったりするから、そこは勘違いすべきではなかろう。

つまるところ、香港人は今日(昔もかもね)とてもフラットに日本人を
評価しているわけで、こちらも変なバイアスは抜きにして、まずは
同じ目線に立つことが非常に大事なんじゃないかなとは常々感じるところ。

そして、あとは「なんとなく」が突然やってくるのを気長に待ってあげること。

簡単、簡単。

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