マフィアのトラウマ

東南アジアからやってくるメイドさんが香港にはわんさかいる。
うちのマンションだって、犬の散歩を彼女たちに任せている人たちが
多いから、散歩の途中で知り合ったメイドさんたちも何人かいたりする。

ただ、私自身は直接メイドを雇ったこともなければ、
友達になるような機会もないし、ほとんど関わりがないわけで、
身近にいるのに実は何も知らない、未知の部分が多い存在である。
そして、実はできれば今後もあんまり関わりあいたくないとも思っている。

今だから告白するが、実は私にはメイドさんにトラウマがあるのだ。

これまであまり人に語ったことは無かったが、最近私の心の傷も
癒えつつあるので、皆さんにお話してみたいと思う。

 それは何の変哲も無い、香港僻地の一角で起こった


もうかれこれ5、6年前のお話。

私が香港の僻地に住んでいたことは以前にも書いたと思う。
いつものように1時間半かけて家に帰ってきた私は
帰る途中のケンタッキーで買った夕飯をテーブルに置き、
私の帰りを今か今かと待っていたワンコたちの部屋に向かった。

六合彩にでも当たったのかと思うくらいにはしゃぐ彼ら
ご飯をあげて、軽く散歩に出してあげるのが夕飯前の日課。
夕飯を一瞬で平らげた彼らは勢い良くドアを飛び出していく。

香港の市街地でリードをつけずに散歩に出そうものなら、
十歩歩かないうちに車に轢き殺されてしまうか、
そうでなくとも香港人の氷のような視線を集めてしまうのがオチ。
だが、ここはど田舎だから、人なんていないのである。

そんなワンコもフリーに扱えるという田舎の特権を振りかざす
私も一緒に外にでて、家の前の角を曲がった時、
珍しく小さな人影が見えた。しかも、相手もワンコ連れである。

ヤバイ。


思った時はすでに遅かった。

向こうも二匹のワンコ。しかも、揃いも揃って大型犬だ。
急な出会い頭で顔を合わせたワンコたちは当然パニック状態。
それだけならいいが、向こうの大型犬たちはこちらに猛突進を開始。

だが、何だか様子が変である。
何故か小さな影がそれにえらい勢いで引きずられているのだ・・・

あまりの不測の事態の発生に、不謹慎だが私はちょっと笑ってしまった。
小人のような影が二匹の大型犬を散歩。まずはそのアンバランスが
面白い上に、不幸にも今、私の目の前で小人はそれらに蹂躙されている
こんな漫画みたいなことが起こる現場自体が大変に可笑しかったわけである。

しかし、随分と派手に引き摺られてるのに、小人はリードを決して手放さない
地面はまったく整備されてない凸凹のアスファルト。
軽く10mくらいは引き摺られていたので、私は我慢できなくなって、

「は、放せよ。ドアホーッ!笑」といい加減にツッコミを入れたのであった

I’m bleeding!


ようやくワンコたちも落ち着きを取り戻した後、よくよく見ると
この小人はお隣の家のメイドさんであることが分かった。

彼女とはまったく面識がなかったが、夜中によく大きなワンコを連れて
外に出ては携帯で友達に電話をしてたところは目撃してたので、
散歩と言いながら、お仕事さぼってたってこと
おそらく今夜も携帯に熱中してたら横でワンコの闘争が急に始まって、
わけもわかんないまま引き摺られちゃったってところだろう。

そして、私が「だ、大丈夫?」と一応心配して声をかけた途端である。

Oh My God! I’m bleeding~!」の絶叫が始まってしまった。

今まで聞いたこともないような恐ろしい声だったので、
私もビックリしてしまったが、内心「大袈裟すぎやで、自分〜」とか
思ってしまったくらいだから、私は妙に冷静であったのであろう。
(笑ってたくらいだからね)

一応、医者に連れて行きたかったのだけれど


しかし、私もここで放置してしまっては日本男児の名が廃るから、
病院に連れていくことにした。田舎で街灯もないから、
様子が分からないが、I’m bleeding!とか叫んでるわけで、
多少の出血もあるのだろう。まことに可哀想なことである。

意味不明な冷静さを見せる私は呑気に彼女の家までいって、
ワンコを閉じ込めた後、自分のワンコも家に収納。
引き続き泣き喚く彼女よりもワンコたちをまずは優先して処理してから、
ようやく通りに出てタクシーを探し始めた。

幸い、タクシーはすぐに見つかったのだが、問題はどこに向かうかである。
私は一応体は強い方であるから、風邪くらいしか引いたことがないし、
病院といったって普通の小さな町医者レベルで事が済んでしまう人間だ。

この異国の地、香港。
しかも大埔くんだりの病院事情なんてまったく疎いのである。
そこで私はタクシーの司機にこう伝えた。

「あの、街市の前に病院があると思うので、そこへ。」

生きてんのか、死んでのか、分かんないようなおじいちゃんが
やってる、やはり絵に描いたような行きつけの町医者へと向かったのである。

誰がマフィアだというのか


タクシーの中で私は彼女を落ち着かせるために一応の努力をした。
まずは悲しい出会い方ではあるが、これもひとつの貴重な
出会いであるし、今後のことも考えて、名前を尋ねた。

マ、マフィアッ〜!

いや、私はこんな僻地で何やってるか分からない素性の知れない
日本人ではあるし、実際あんたを傷つけてしまったが、
マフィアをやるほどの度胸もないし、至って心優しい日本男児である。

しかし、何回聞いても「マフィアッ〜!」なんである

さすがの私も何度もマフィア呼ばわりされると気分もあんまり
良くないわけであるが、相手は怪我人である。
私は大人の対応で許してやったと記憶している。

私の心情にも変化が


ちなみに、後に分かることだが、彼女の本名は「Maria」。
この時、口が変形するほどのダメージを負っていて、
Mariaが発音できず、マフィアになっていたという次第であった。

そんな過酷な状況で繰り返し尋問するなんて私もドSである。

他にも、私はマフィアからの依頼で彼女の雇用主に電話し、
状況を説明するという連絡業務も担当した。

その頃の私といえば、広東語も初級程度、英語もサッパリで
このちょっとあり得ない不可思議な状況をうまく説明できるほどの
言語力なんてまったく備わっていなかったから、
雇用主の方もきっとチンプンカンプンであっただろう。

だが、私が電話している時に、何故かマフィアがより一層
不自然なくらい大きな
声で悲鳴をあげていたのはよく覚えている。
もうすぐ産まれるのか?ってくらいの勢いであったが、
おかげで雇用主も気が動転し始め、パニクってしまった。

この辺からである。私の心に変化が現れたのは

病院についたのは良いが


20分ほどタクシーに揺られているうちに、
マフィアと私はその街市前の町医者に到着した。

いつものように中に入って受付を済ませようかと思ったが、
ドアを開けて病院の中に入った瞬間、看護婦たちが揃いも揃って、
大きな口を開けてこっちを見ているのである。

可笑しな顔をするものだ、と落ち着き払って
私も自分の横に立つマフィアの姿を改まって見た瞬間・・・。
看護婦たちとまったく同じ表情になってしまった。

事件は暗闇で起こり、その後タクシーも含めて、
ずっと暗い中でマフィアと時間を過ごしてきたから、
こうして明るい場所でマジマジと彼女を見るのは初めてである。

あれ・・・?何か結構死にそうじゃない?

出血量が半端じゃなく、彼女のTシャツは真っ赤に染まっているし、
顔面からアスファルトに激突したらしく、口周りがおおよそ
普通の人間とは違うレイアウトに変形していた。

あんた!これは救急車レベルでしょ!早く大きな病院へ!

看護婦たちもマフィアの惨状を目にしてパニック状態に陥り、
私はえらい剣幕で怒鳴られたと記憶している。
当たり前である。こんな町医者で対応できるレベルをとうに超えていた。

タクシーの中で錯綜する最悪のシナリオ


しかし、私はここでもなぜか救急車に乗らず、
新たにタクシーを探し、大きな病院へとそれを走らせた。
私も意味不明に気が動転し始めていたのだと思う。

タクシーの中で私はもうマフィアが死んでしまう想定
未来を再構築し始めていた。何せ出血量が尋常ではない。

マフィアの雇用主がこのか弱いフィリピン人女性に不釣り合いな
二匹の大型犬を散歩させていたこと、マフィアもマフィアで
仕事をさぼってボケーっとしてた否もあるが、
私だってリードをせずに犬を放ってたから、過失はある

香港の刑務所とはどんなであろうか。
こんな異国にまできて、しかも犬の散歩で人を殺めてしまうとは。
私の頭の中には既に裁判所の真ん中で尋問されている光景が広がっていた。

そんな想像を繰り広げる横でマフィアがまだ痛々しい悲鳴を上げている。
「お金は全部私が払うからね。安心して!私がずっと面倒を見るから!」
とか、傍から見たら「結婚すんのかよ」的な超絶無責任なセリフ
私は気が狂ったように吐いていたような気がする。

私の人生はもうブタ箱入り決定だし、入らなかったとしても、
一生マフィアのための償いに捧げる人生であろう。
今ここで適当な約束をして解決できるなら、その方が全然楽である。

マフィアの状態、私の今後は如何に


病院に到着した時、おかしなことに私はマフィア以上に涙目状態であった

医者は要領よくマフィアの状態を観察していた。
彼女の唇を見るなりにおもむろに爪楊枝のようなもので
それを刺して見せたが、見事に貫通。
唇に大きな穴が空いてたわけである。(そりゃ喋れないわけだわ)

歯のレントゲンをとってみても、幾つかの歯たちはあり得ない方向を
向いてしまっていたし、見ているこちらの方が辛かったのだが、
幸い命の支障はないということでとりあえず殺人罪からは開放された。

しかし、彼女の雇用主もようやく病院に到着。
話次第では裁判沙汰もあり得るし、倍賞金とか請求も当然のお話である。
女の子の唇がズタズタになった上に歯まで折れちゃってるから、
少なくとも香港人雇用主からの粗口の嵐は待ったなしであろう。

とんだ肩透かしで意外な結末


が、物語はあっけなく終わる。

あらー、わざわざ病院まで連れてきてくれたの?ありがとう〜!
とんだ肩透かしであった。

悪の根源だと思われた私が一転して感謝されてしまっているのである。
もしかしたら、この雇用主とマフィアの間で複雑な人間関係も
あったのかもしれないとも考えられるが、
治療費もメイドさん保険で払っちゃうから、お金の話も無しだと言う。

マフィアはそのまま病院に残ることになったが、
私は何だか消化不良のうちに帰宅することに・・・。
あれだけの怪我を負わせてお咎めなしとは如何なものであろう

何だか私の良心が非常に傷んだし、詫びの一つも出てこなかった
自分がとても嫌な人間に思えてしまった。

マフィアもなかなか悪よのう


しかし、数日後、家の前でマフィアに偶然に出会った。
私の方としては当然にバツが悪いわけであったが、意外にも彼女は笑顔。
アフリカ人か!っていうくらいのすきっ歯が痛々しいが。

聞いてみれば、療養ということで今は仕事をしなくて良いし、
悠々自適の生活でとっても嬉しいんだそうな。
今思えば、タクシーの中でやたら大きな悲鳴をあげて雇用主に
アピールしてたのもこれが狙いだったのかもしれない。

・・・マフィアもなかなか役者である

そして、別れ際の一言が「次は救急車呼べってさ。
雇用主に言われたらしいが、あれだけの経験をした後の感想が
これだけである。フィリピン人、ポジティブ過ぎまいか。

ちなみに、このワンコの散歩という日常に突然起こったアクシデント
であるが、初めにも書いたように私のトラウマとして心に刻まれている。
しかし、もっと嫌になるのは私の一連のダメ人間のお手本のような
グダグダの事故対応である。こっちの方が私的にはよっぽど黒歴史。

何がずっと面倒見るから、であろうか。
今となっては恥ずかしすぎる、消し去りたい過去である。

香港にお住まいの皆さん、いつ何時このような事態に巻き込まれても
良いように、少なくとも救急車の呼び方くらいは覚えておくべしである。

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