言えないのではなく、言わないんである。
私は、人に助けてもらったり、物をもらった時には、お礼を言う。
感謝を込めて「ありがとう」と。
… 言わないんである。
ご飯をおごってあげようが、何かお土産を買って来ようが、
当たり前のように言わないんである。
あんたは何様だ
こっちは良かれと思ってやっている。
雨降ってるから傘を駅まで持っていってあげる。
朝ごはん食べてないっていうから、ついでに買ってあげる。
嬉しそうな顔とその言葉を待っているのに。
言わないんである。
多少は嬉しそうな顔をするけれど、あたかも当たり前のこと、
と言わんばかりの態度でさっと受け取る。
衝撃だった。日本ではこんなことあり得ない。心のなかで何度もキレた。
我慢の限界が訪れた
この「言わないんである」ことは、当初私の中の香港人の
印象を相当に悪くした。常識がなさすぎだろ、と。
すぐに感情に出すタイプではないから、
そういうことがある度に内に溜めて、悶々とした。
そして、ある日、とうとう我慢できなくなって、
声に出してしまったのである。
「なんでありがとうって言えないの?」
場に何とも言えない雰囲気が張り詰めた。
困惑したような、残念そうな、悲しい姿が映った。
言えないんでなくて、言わないんである。
その落胆に満ちた香港人はこう答えたのである。
親しいからこそ、言わないんだ、と。
私はちょっと恥ずかしくなった。
考えてみれば、その人を含めて言わないんである、な人は
みんな私をよく知ってる、いわば親しい人たちばかり。
会社のただの同僚や、そこらの茶餐廳のおじさんは、
気軽に「ありがとう」って言ってくる。
常識とか、教育だとか、そういうレベルの問題ではなかったのだ。
口に出すことで生まれる距離
「ありがとう」って言うこと自体が遠慮である。
家族なら、親友なら、恋人なら、遠慮なんて必要ない。
そんな言葉を聞いてしまった瞬間、距離が生まれる。
相手が遠ざかっていくように感じてしまう。
そういえば、「ごめんなさい」もあまり聞かない。
自分の身内だと思っていたら、そこに愛があるのは分かりきってる。
安っぽい「ありがとう」や「ごめんなさい」は必要ないのだ。
これが彼らの理屈である。
親しき仲にもなんとやら
これはもう壮絶なカルチャーショックだったし、
未だに「ありがとう」って反射的に言ってしまって、怒られる。
なにしろこっちは「親しき仲にも礼儀あり」の世界で育った。
しかも、トリッキーな部分は良かれと思って発した言葉が、
逆に相手を傷つけていることである。
そして、彼らにしてみれば、「言わないんである」事が愛情表現なのに、
私は理解してあげられなかったんである。
こんな悲しいことって無いだろう?
イライラが無くなった時
そんな衝撃的な学習を経た私だったが、その後目の前でまた
言わないんである、が発生した。
もうあの時と同じ感情は無かった。
「あ、この人、私の身内になったな。」
あれだけ私をイライラさせた言わないんであるが、
とっても嬉しい友情の証に変わった瞬間だった。
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